地球へ……から、超能力者の見た目年齢詐称能力を考える
ソルジャー・ブルーは言っている。
僕の姿が若いことを気にしないでくれたまえ。ミュウはとかく、外観を、若く保ちたがる。
当時、友人とこの問題で盛り上がった。
では、なぜ、ミュウの面々は…特に古参の幹部連は、見た目の年齢がバラバラなのか。
ゼルは明らかに年寄りに見える。実年齢は多分、ソルジャーより若いはずなのに、だ。
ハーレイはおっさんだし、エラ女史はおばさんに見える。
友人1は言った。
「誰もが若い外見を好むわけやないやろ」
まあね。
友人2の意見。
「若く保つ能力には個人差があるんよ。できない人もおるんや」
ありえる。
……としたら、ソルジャーの言い方はなんだかあまりよろしくない。個人の意向や能力の優劣に配慮が足りない気がする。指導者としてどうなんだ?
それともまだミュウとして意志の固まっていないジョミーに、手の内を完全には見せないつもりでの発言か。
ミュウは長生きだけど虚弱体質だという。ケガの治りも遅い。
ん?
それって、相反することじゃないかい?。
長生きなのは細胞の老化を抑えるとか、新陳代を良くして活性化させるから…な気がする。
だったら逆にケガの治りも早そうだけど……?
超人ロックがやる、あの「シュウシュウ」っやつね。
「見つかりたくない」という思念の力がバリヤーとなって船を守る…とある。
同じように「年を取りたくない」という思念の力で外見を保つのだろうか。
ミュウには小さな子供もいる。彼らはごく普通に成長(年を取っている)ように見て取れる。ナスカ生まれのミュウ達もトォニィ以外はそれ相応に成長過程を踏んでいると思う。
成長が止まる、またはゆっくりになるのは何歳くらいからなんだろう。本人が「この辺りで」と思った時から?
そんなに都合良くいくか?。
私はなんとなくだが、
超能力が強力に発現してしまったらエネルギーが全部そっちに使われて、体の成長に回らなくなるんだろう
…と思っていた。
若いうちはまだそれでもエネルギーが旺盛で、超能力に費やす分を補っても余りがある。体か成長し切ってしまう頃にはこのバランスが逆転してしまうのだ。……が、ゼルのように止まるのではなく老いていく者は、実は、成長を止めてしまうほど超能力が強力では無いのではないか?
実際、作品の中でも長老と呼ばれる面々が絶大な力を発揮する場面は無いし。
ゼル、ごめんなさい。
決してアナタを侮辱するつもりはないよ〜。
苦難の道を乗り切った古株の方々には敬意を評します!
さて、
成長が止まってしまったと思われる代表は
「アキラ」のキヨコやマサルやタカシだろう。
「ワンパンマン」のタツマキもそれかも知れない。
超能力で意識的に止めたり進めたりできる代表
は、やっぱりロック。
確定するには記憶不足だけど、シマックも外見が変わらないという説がある。
年齢を止めるどころか、力を使い過ぎたら老いてしまう超能力者もいる。
バビル2世とヨミだ。
いや、待って。
体のエネルギーが衰退する年齢になって、超能力がエネルギーを独占するようになったら、年齢が止まるどころか余計に早く老いそうな気がする。
超能力者って大変なんだな。
百億の昼と千億の夜……「シ」とは高次元の存在なのか
宇宙が無限の広がりを持つ球の内部なら、その外はどうなっているのか。
宇宙の果てとは何だ。
「無限の広がりのその外を考える事はできない」
「宇宙の膨張速度が光速に達したところに果てがある」
と阿修羅ですら考えている。
今回はちょっと面倒くさい話。シロウトのこじつけ話なので、寝言程度に軽く聞いててほしい。
光の速度でも到達できない場所からは、一切の情報が伝わってこない。我々には何の影響も与えようがない。我々にとって「無い」のと同じ。世界はそこまで。つまり、そこが、果て。
だからといって、その先に「何も無い」わけじゃない。見えなくたって、あるものはある。
最近よく耳にする「ダークマター」だの「ダークエネルギー」だの。
見えないけど何かあるぞ!ってヤツか?。
「シ」の存在への第一歩ではないか?
何かの本に載っていた話。
確か、2次元と3次元の世界感の解説だ。
3次元空間にあるアイスクリームのコーン。
これが地面にめり込んでいると想像する。
縦に刺さった状態。
2次元に生きている平面人には、断面の丸しかわからない。何本かのコーンがバラバラの深さに刺さっていたら、大きさの違う丸だとわかるだけ。
もし、コーンが横倒しになっていたら?
断面は三角。
この2次元の平面人が重さを計算する術を持っていたら、
大きな丸も、小さな丸も、三角も、全く同じ重さだと知って当惑するだろう。
同じものを違う角度から見ているだけだと気付けるだろうか。
ましてやそれがアイスクリームを入れて食べるためのものだなんて、どうひっくり返ったってわかるはずはない。
これを読んだ時に思った。
そう、つまり、ソレ。
光も重さも、ひょっとしたら時間さえも、
我々よりも上の次元の何かが、
刺さったり、横倒しになったりしてるだけなんじゃね?
見えているのはほんの一部で、だからすんごい重いんじゃね?
重力には「引き」しかないらしいけど、我々の方を向いてないあっちの端には「反発」があるんじゃね?
そもそもそれは「引く」もんじゃなくて、全く違う用途のモノなんじゃね?
そしてそれは、低次元の者には、絶対に見えないものだ。
そしてそんな者から見たら我々なんて、
我々が平面人を見るよりも、
はるかにちっぽけなモノにしか、
感じられないに違いないと思う。
まさに
「反応炉に発生した
「よく動く」
「たいそう原始的な生物」
生き物とみてくれてるだけでも、奇跡。
この小説が出た頃はまだ、ダークマターもマルチバースも、高次元の概念もメジャーではなかったかと思う。
全宇宙を掌握する超絶者は、宇宙の外の存在で妥当。
でも、今なら、宇宙の外まで行かなくても、私には絶対に知り得ない場所が、同じ宇宙の中にある。
インターステラーの映画にもあった、「高次元の世界」だ。
科学者がシャーレやスライドグラスに薬品を垂らして
「どうなるか観てみよう」って時に、
シャーレの中の被検体に何らかの罪悪感なんて、まず感じない。
それと同じことを、高次元の存在がやってみないという保証は無い。
今、現在、実際に、行われていても、
我々には感知もできない!!
さあさあさあ〜。
がぜん現実味を帯びて来た。(…来ないか?)
いや、
別に恐怖を煽る意図は、全く無いよ。
この小説が今書かれていたら、「シ」とは宇宙の外ではなく、高次元の存在だとされていたかもな〜と考えてるだけ。
こう考える方がわかりやすいし、なんか、ありそうな話っぽい。
少なくとも私には、マルチバースよりイメージしやすい。
ブラックホールの模型として、よく出てくる「ラッパを引き伸ばしたような」あの絵。
あれはあくまでも3次元の形だ。
アイスクリームのコーンが2次元では丸に過ぎないように、
きっと、高次元では、全く違う形をしているんだよね。
そして、「光すら脱出できない空間」という性質も
ああ、そういうことしたらそうなるね〜
なんて言われちゃうんだ。
阿修羅王の旅は、そこへ到達する道を見つけられるのだろうか。
阿修羅王は、今の人類そのものなのか。
百億の昼と千億の夜……好きなカットを挙げるなら
漫画版での私の好きなカット、コマを挙げてみる。
百億を思い浮かべると、必ず頭に蘇る箇所だ。
●悉達多太子が阿修羅王に逢う場面。
「ーそれは」と言いよどむ太子を覗き込むように、阿修羅王が言う。
「ほ、それは?」
「ほう」じゃないところがなんともたまらない!
●「まだ破滅が来てないからだ」の答えを「ハ!」とあざ笑い、虚空に向かって手を上げる。
「これが末世だ
見るがいい!」
レイアウト、凄い!まさしく虚空を感じる〜。
●目覚めたシッタータがトーキョーシティに辿り着く。人の気配に跳び上がる場面の
ヒラリ
文句なし!かっこいい!
●トーキョーシティでのナザレのイエスの襲撃の後、阿修羅とシッタータとオリオナエが話をする場面。「これは愉快!」と立ち上がり…。
「それともいっそ本当に」と話す阿修羅のポーズ。
阿修羅の動き、所作にはリズムと音楽があるよね〜。
●さらにその後。「神とは…人々を導き救うものだ…」と言うシッタータを
肘を付いた姿勢で見ている阿修羅。特に顎に当てた手が、右は指を立て、左は握っている様子。
表情が好き。顎に当てた手をこんな風に描くの、他に見たことないし〜!
●アスタータ50で「その球体は一体なんなのだ」に答えるナザレのイエスの
「本当はいねえんだ」までの表情の変化。
小物感炸裂!憎めない〜。
●極めつけは、
アトランティスの王宮。
オリオナエの眼前に広がる真っ暗な空間!
これは怖い。ちょっとトラウマになりそうなくらいに、怖い。
例えば夜に車で走っていて、照明が少なくてやたら暗い道にさしかかったりすると、
必ずこのシーンを思い出す。
東北の震災の時。
真っ暗な街のあちこちに燃える火。
あの映像がこれに重なって、恐怖と絶望感が増した。
百億の昼と千億の夜……気になる行方。
シンセイウンキ
ソウタイヨウ アオ93ヨリ キ17ノナツ
アスタータ50二オケルワクセイカイハツイインカイハ……
これを諳んじられる人は、それなりにいるんじゃないかと思う。もちろん、私もそのうちの一人。
萩尾先生の漫画をリアルタイムで読み、慌てるように小説を手に入れた。
おりおなえのカタカナセリフは今だに辛いけど、何度読み返しても飽きない。
小説と漫画ではご存知のように、少し違う部分がある。今更比べる必要もないし、考察は既にいろんなところで語られてるし、あんまり深遠な論評はできそうにないので、ゆるゆるした内容でね。
で、挙げるなら、ユダから。
小説ではユダはゴルゴダの丘の日以降、姿を見たものはいない…とされている。
漫画版ではゼンゼンシティーの首相として、囚われの身だった。
どちらがより良いか……なんてことじゃなくて。
気になるのは小説版のユダの行方だ。
彼はイエスの存在に明らかに「違う」ものを感じていた。漫画版と同様に転輪王の召喚を受けた人物だったなと思う。
では、彼はなぜ再び現れることはなかったのか。
シッタータが眠っていた海の一角、はるかな深淵に何物かが沈んでいた。近づいた魚が怯えたように慌てて逃げるような、かなりヤバげなシロモノだ。
当初はそれは、ナザレのイエスの睡眠ポッドだろうと思っていた。
シッタータの目覚めの前に浮上して、トーキョーシティに向かう砂漠に着陸したのだ…と。
いや。
あれは、
ユダのポッドだったのではないか?
いち早く「シ」に探知され、目覚めることなく破壊、遺棄された。その無残な残骸、もしくは戦士として改造途中の異様な姿に、魚達もびびった。
のちに転輪王は「残ったのはお前達だけ」的な事を言っている。戦士の仕込みは他にもたくさんおこなったわけで、そのすべてが失われたのだ。
シッタータは阿修羅たちに、あれが何だったのか気になる、と話している。私も気になる。
これは回収されないままの謎た。
未回収……といえば、エルカシアの村を出たプラトンの行方もかなり気になる。
何やら「そこで待っているはずだ」とか言って、グラディウスを不安にしていた。
誰が待っているのだろう。
誰と会うことになっていたのだろう。
アテナイで弟子達に見守られて亡くなった。それは事実…と、ある。これはもうプラトンは、エルカシアのあと二度とアテナイに戻ることはありませんでした〜〜〜と言ってるのと同じだよ。
とするなら、次の村で待っていたのは
おりおなえ……か?。
アスタータ50で逃げたナザレのイエスはどこへ行ったろう。
あの球体はおりおなえに分解されてしまったから、もう自力では違う空間には行けまい。あのまま荒れ果てたアスタータ50を彷徨い続けるのかと思うとちょっと可哀想になってくる。漫画版は小説版よりも小物感が強いから余計に。
光瀬龍は「百億は前編」…みたいな発言をされていたという話がある。もしそれが本当でも、もう後編を読むことはかなわない。
それでも、もし、本当だったなら、
ナザレのイエスは阿修羅王の前に再び現れたのではないか?!。共闘する展開だってありえる。
あのままの使いっパでは、彼だって不本意だろう。
なんか、憎めないんたよなあ、あのおじさん。
アトランティス最後の日。
例えば暴動が起こらずに、あの黒い空間に素直に飲み込まれていたら、はたしてどこへ行けたのだろう。そもそもポセイドンに「移動」の気があったのか、かなり怪しいだけに答えがない。
要は「神」を絶対的に崇拝させれば国民丸ごと意のままにできるかの実証だったのか?
「移動」ねえ…。この世じゃないとこへの「移動」?
「消去」「抹殺」「絶滅」。物騒な言葉に置き換えたくなるね。
阿修羅は「失敗だった。それでよかった」と言っている。ヒトはそう簡単じゃないんだよ!と思い知らせてやったってこと?アトランティスが成功していれば事態はもっと早く進行していたと?。
うう〜ん、それはどうか。
これはダメだったな〜と思ったら、普通はよりハードな方法を持ち出すだろう。
その新たな方法が、神自らが乗り込むのではなく、「神の子」を遣わすことだったとしたら?
なまじ納得できてしまいそうなので、この話はここまでに。
話は変えて、漫画版。
プラトンがエルカシアの村で歓迎を受け、ご馳走を食べたあと、
「腹がくちくなったら、眠くなった」
と言う。
この「くちくなる」という言葉。
状況から意味はわかるが初めて聞いた。萩尾先生の地元の方言かな?と思ったけど、調べてみるとなかなか複雑で難しい解説がされている。
方言でもなさそうだ。
ちなみに私の実家の辺りでは「腹がおきる」という。こっちは方言だけどね。
そういえば、「進撃の巨人」を読んでいた時に
ドベ
という言葉が出てきて驚いた。
私は西の出身だから聞き慣れているけど、関東の読者に意味が通じたんだろうか〜。
ググれは大丈夫か、今の時代ならね。
イズァローン伝説……と「光の王」。
これは私の一方な印象。
イズァローン伝説の前半。
ティオキアが地下で魔王を呼び覚ます件を読んでいた時に、ある小説を思い浮かべた。
ロジャー・ゼラズニィの「光の王」。
ハヤカワ文庫から出ているSF小説だ。
話は全然似ていない。
似ている所があるとしたら、深い深い地下へ降りて魔族の王ターラカーを開放し、ちょっと体を乗っ取られそうになることくらいだ。
ただ、なんとなく、
同じような空気を感じた。
もしかしたら竹宮先生もこの小説を読んだ事があるんじゃないか?と、勝手に想像している。
「光の王」は遥かな未来の話だ。
ある惑星に入植した人類は、元々はその星の住民で今は肉体を捨てエネルギー体となった羅刹(魔族)を地の底に封じ込め、繁栄を手に入れる。
人類は肉体を取り替える「転生」を通常の事として確立していて、初期の入植者で特殊な能力をもった者達は、転生を繰り返す事により能力が強化され、いつしか神のような存在として君臨していた。
主人公のサムは自身も神の一人でありながら、その体制を崩壊させるべく神々と戦う……。
まあ、そんな話だ。
主人公サム。
またの名は、シッダルタ。正覚者、仏陀。
他の登場人物の名前をいくつか挙げると、
ブラフマン
ヴィシュヌ
シヴァ
アグニ
ヤマ・ダルマ
カーリー
クリシュナ
どこかで聞いたことあるでしょ。
内容も文体もメカメカしいSFではなくて、神話や叙事詩を謳うような雰囲気がある。
インド神話や宗教に興味があって、ハードなSFはイマイチって方には超〜お勧め!
「転生」が上手く話に絡んでとても面白い。
ただ、敬虔な仏教徒の方にはちょっとショックなセリフもあるので……。
なんか、いかにも竹宮先生が読んでいそうな気がしないか〜?。
でも、実は、この本。当初の表紙を描いていたのは竹宮先生ではなく、萩尾望都先生だった!
私の持ってる本はいつの出版だか、それとはまた違ったイラストチックなヤツだけど。
確かに、もし漫画化されるとしたなら、竹宮先生より萩尾先生向きだとは思うなあ。シブいおじさんはたくさん出てくるけど、少年キャラがいないしね。
何度か再版されているから、本屋の店頭にはもう萩尾バージョンは無い。図書館か古書レベルだけど、機会があったら探してみたい。
小説の漫画化……ほどではないが、竹宮先生が描いた「砂の惑星」のポウルが忘れられない。
ちょっと自信が😰だけど、「地球へ…」の総集編内、ページの左側余白に描かれていた!!
緩く流れる衣装と黒い髪。首の周りにはスティルスーツのチューブが見えている。
「デューン砂の惑星のポウル」と但書があった。
そうだ。
砂の惑星を漫画化するなら、こっちは萩尾先生よりも竹宮先生だ。
そういえば、「アンドロメダストーリー」で王国を脱出したジムサが母と荒地に逃亡する辺りは砂の惑星っぽいかも知れない。
どうも私と竹宮先生は読み物の嗜好(志向)が似ている?
勝手に思ってるだけ…ね。
イズァローン伝説……不満たらたら。
イゼルローンの書き間違いではない。
イズァローンだ。
竹宮恵子先生の代表作のひとつ…になるのかな。
本箱の奥に6巻を見つけた。残ってたんだ。
随分前に整理をした時、全巻ブックオフに出したつもりだった。
読んでみた。
不満が再燃した。
具合の悪いことに6巻は、以前抱えていた不満の箇所が載っている、まさに、その、巻、なのだ。
結構な長編だし内容が複雑なので、あらすじを書き始めたらすっ飛ばしたとしても大変なことになる。
やめる。
だから読んだことの無い方には申し訳ないけど、私がぶちまける不満はチンプンカンプンだと思う。
すいません。
超〜ザックリ言うと。
ヒトと魔物、魔女や魔術が共存する世界。イズァローンの王子ティオキアは地下に封印されていた魔王を開放してしまった上、その身に魔王を宿す存在に。ティオキアが人間性を失い魔王に取って代わられたらこの世界は終わりだ。古代からの謎を解きつつ、魔王を滅ぼすためヒトと魔の壮絶な争い。その結末は…!
あってる?これで?
すげ〜ザックリ?
念のため言っておくと、私は竹宮先生のファンだ。作品もた〜くさん読んだ。
その上であえて不満タラタラ言うのは、一種の愛情表現だとして流して欲しい。
で、何か不満なのかと言うと、
アスナベルが魔に取り憑かれ、失った記憶を取り戻すためにゲドの魔薬を飲むあたりだ。
ルキシュの命令でティオキアを捕らえに行ったアスナベルは、彼の中に魔王を見る。危うくその場を脱するも魔に取り憑かれ、ティオキアと会った際の記憶を奪われてしまう。
無くした記憶の中に大事なことがある!
命に代えても思い出さねば…!と思い詰め、魔を祓い記憶を取り戻す力のあるゲドの魔薬を探して彷徨うのだ。
ここまでが5巻。
問題の6巻はアスナベルが苦労の末、
両目と引き換えに薬を手に入れ、
飲んで瀕死の状態になり、
蘇ってルキシュに報告するまでの話だ。忙しいぞ。
壮絶な苦しみのあと息を吹き返して何を思い出し、何をルキシュに報告したか。
そのシーン。
たった半ページで終了〜〜〜!?
実は読者は知っていた。
ティオキアとアスナベルは別にたいした話をしていないのだ。ティオキアがヒトでなくなりつつあるっぼいのは既に察していたし。
1巻分以上のページ数を費やし、ここまで彼に苦労させたからには、
いや、きっと、劇的な報告シーンがある。聞いたルキシュが折り崩れるほどの衝撃だ!
期待した。まあ、勝手に……ではあるが。
ところがその報告は数コマで終わり、わかった(もういい)と拒否られる始末。
もしかしてこれはつまりアレか?
仮死状態のアスナベルを蘇らせようと旦那のルキシュそっちのけなフレイアこそが、話の展開上必要だったのか?
すべてはルキシュの嫉妬心と孤独感をMAXまで引き上げるための仕込みか?
だったら普通にケガでもいいじゃん!
あまりにもアスナベル可哀想な当時の私は、独自のストーリーを妄想すらした。
例えばあの時、
ティオキアが魔王を滅する決定的な方法をアスナベルに教え、「命に代えてもルキシュに伝えよ!」
……って展開はどうだ。
それに従いティオキアごと火刑に処し、結界への道を開くのだ。
これならアスナベルの責任重大。魔王としては阻止したいだろうし、忘れました〜では済まされない。
竹宮先生的にはクサい展開かな。
世界の明日より、個人の「愛」と「憎」。
竹宮漫画にはそういうところがある。
世界の明日を託されながら、私情に翻弄されることを隠さない。
そういう人物像を愛してるのかも知れない。
でもなあ〜。
私はやっぱりなあ〜。
カウスのような一途派が好きだ。
水泳漫画……覚えている&思い出せない
多分、小学生の頃に読んだ漫画だ。
掲載は少女漫画誌だと思う。
水泳のスポ根もの。
なんとなくだけど、作者は男性じゃないかと思う。記憶している絵柄がそんな感じなのだ。
ストーリーはよくある話。
落ちこぼれ気味で挫折寸前の主人公がそこら辺でクサってるようなおっさんにコーチを受け、才能を開花させる話。そのおっさんは過去に水泳界で異彩を放ったスイマーで、独自の泳法で伝説を作った……とか。お定まりで、病に侵されてる。
主人公が、多分選抜チームの合宿…😰に参加していたものの、最終選考に漏れて失意のまま合宿所を飛び出す…みたいな始まりだった😰😰😰😰
ちなみに主人公は中高校生の女の子。
その途中でそのおじさんと会い、経緯は😰だがコーチを受けることになるのだな〜。
「ははぁ〜ん、逃げ出してきたな?いっちょオレが鍛えてやろう」ってノリだったかもしれない。
何か記憶に引っかかっているかというと、その特訓法だ。
これまた経緯は😰だけど、いつの間にか主人公の友人も一緒にコーチを受けていた。
どうやらこのおっさんが伝授しようとしている泳法には、腕の力が半端なく必要ならしい。
エキスパンダーだ。
両手で握って胸のまえで、バネをぐい〜〜っと伸ばす、アレ。
あのエキスパンダーを背中に背負うように両手首に結び付ける。そしてバネを伸ばしながらクロールを泳ぐのだ!!!
………何か起こると思う?
「痛いっ!」
友人の方が悲鳴を上げる!
そう。バネに挟まって、背中一面ミミズバレなのだ〜!
当然主人公の背中もだ。
「こんなキズの痛みなんて、なんでもないわ」と笑う。
いやいやいや、なんでもあるだろ〜!
第一、そんなんでまともに泳げるか?腕の力、つく?
巨人の星の飛雄馬の大リーグボール養成ギブスもそうだけど、素肌に伸縮するバネをくっつけるなんて特訓じゃなくて虐待だ。
高校鉄拳伝タフのおとんもキー坊にバネ繋いでたけど、挟まらないようにバネの部分は袋で覆っていた。
さすが、おとん!厳しくてもキー坊愛が伝わってくるよ〜〜。
その水泳漫画の異常な特訓はまだある。
おっさんの泳法の秘密その2だ!
強力な腕の力で水をかくことにより、頭が水面から持ち上がるというのだ!!!
水中に突っ込んだ腕か水をかく時に、強力な推進力で体が持ち上がるらしい。
それ、速いのか?
持ち上がるヒマがあるなら前進した方が良くない?
とにかく、その、体も持ち上げる強力な「掻き」を会得するために、体に重りをつけた鎖を巻きつけて泳ぐのだ!
重りが何キロだったかは😰だが、一発で沈んで溺れていた。むちゃくちゃやん……。
トドメは、この泳法。飛沫があまり上がらないらしい。余計な飛沫は推進のロスなんだろう。そのために、水に掻き手を突っ込む際はいわゆる手刀形だ!
なるべく水との接触面を小さくして抵抗を減らし、余計な飛沫を上げないためだと思われる。
それじゃ、水、掻けないんじゃない?
水が掻けないと、前に進めないんじゃない?
少なくとも私、平泳ぎ習った時は、水をなるべく多く後ろに押しのけるつもりで掻け。そのためには手はお椀形だ!と教わったよ。
この漫画が何だったのかは、思い出せない。
覚えているのは、過酷な割に効果が疑問視される特訓だ。
でも多分 当時の私はそこまで気付いてはいなかった。
それが証拠にあの頃は、手を手刀形にしてクロールを泳いでいたのだから。